茶葉も人間も野放しのままでは輝けません

昨日は茶摘みをしました。気温26度。快晴でした。

今日は気温27度。さっきからちょっと薄曇りになってきましたけど、まぁまぁいいお天気で、今朝揉んだ茶葉は車のなかの運転席と助手席に置いて、発酵を待っているところです。

一年の色々な作業の中で、私が最も好きな紅茶づくりを、昨日と今日、細々とですけどやっています。

昨日は、お茶を摘みながら、感動するっていうか、やっぱりねーっていうか、そんな発見がありました。

茶畑のお茶はちゃんと冬の間に剪定をして、5月のお茶摘みのときに揃って綺麗な若葉が見えるようになっているんですね。

ですけど、気温がずっと低かったせいもあり、茶葉が思ったよりたくさん取れなくて、茶葉も小さかったので、足りない分をアドベンチャー農園の生垣になっているお茶の木から摘みました。

アドベンチャー農園のお茶の木は、生垣ですから剪定してないので、放置された野放し状態のお茶の木。

でも、新芽が沢山あって、葉っぱも柔らかくて、面白いようにたくさん摘むことが出来たんですけど。

この剪定したお茶の木の若葉と、剪定をしなかった野放しのお茶の木の若葉が全然違うんです。

剪定した方のお茶の若葉は、本当に粒が揃ってて、それで葉脈もはっきり見えて、キラキラしてるんですよ。

太陽に当たって。ものすごく綺麗に。あたかも茶葉が喋ってるみたいに。
「私を摘んで、上手にお茶にして下さい。そして美味しいねって言われて、あなたにパワーをあげたい。癒す係を全うしたいので、上手に摘んで下さい。」って言ってるみたいに綺麗なんですよ。輝いている。

でも剪定されてない、アドベンチャーの生垣として植えられてたお茶の木は野放しなので、伸び放題で、葉っぱは確かに柔らかくて新芽なんですけど、形も不ぞろいだし、輝きもないし、摘みにくいし、お茶からのエネルギーっていうか、剪定してあった茶葉が私に語りかけてきたみたいなことを感じることができなかったんです。

その両方の茶葉を摘みながら、野放しっていうのはこういうことなんだなって。人間だけじゃないんだねって思いました。

野放しだと、こういうふうに輝けないってことなんだってすごく感じて、「あぁ、なるほどね」って、「人間だけじゃないね」って、とっても腑に落ちたんですね。

野放しじゃなくするということは、悪い芽は摘むっていうことです。
そして、いい所を太陽に当てて、どんどん引き出すってことですね。

自分のなかの絶えず伸びようとする悪い芽がいっぱいあるんですから、人間は誰でも。

剪定しないで野放し状態にすれば、何もかもが野放しの人生ってことですよね。

そこで自己鍛錬、自分の調教が、自分で自分をきっちりと整理整頓していくということが、自分に対する躾だと思いますし、野放しでは、自分の本当に輝かしい、輝くべき所も、外へ出して輝かせることができないっていうことを、自分がわかるっていうことですね。

剪定した茶葉の美しさと、野放しの茶葉のなんとも雑然とした粗々しさ。

葉っぱの形までですよ。あまりにも違うので、私はこんなことをずーっと考えながら摘んでいました。

今日はこれからが非常にスリリングで、太陽との対話ですから、温度が上がったり、下がったり。

風がちょっと冷たくなってきたら、ダァーッと駐車場まで走っていって、車のドアを開けて、茶葉の発酵がどのくらい進んだかなって見るのが、ものすごく生きてる感じがするんです。超わくわくするっていうか。

あと10分やったら発酵し過ぎになったり、5分だったら短かすぎたり、そんなことを皮膚感覚で温度を感じたり。

今日は鳥が沢山鳴いてくれてます。そういう鳥の鳴き声に教わったりしながら、美味しい紅茶が出来るように、最後まで集中力を切らさないためにアーサナを頑張りましょう。

2020年5月3日(日) 紗侑良花(さゆらばな)から

アメイジング・ヨーガ教室
シャンティパット主宰
紙や まさみ