肉体を持って生きている一日一日が大事です

人が亡くなると、初七日と四十九日という法要をします。

することは知っていましたけれど、その意味を今まで不勉強でよく考えたことも調べたこともありませんでした。

今回自分が喪主になって、そういうことも知らずにいてはいけないのだと思ってちょっと調べてみました。

初七日というのは、亡くなった人の魂が燃え盛る火の輪をくぐって、三途の川を渡るための旅に出られるかどうかの、まず一番最初の難関なんだそうですね。

火の輪を無事にくぐって向こう側に行ってから旅が始まるので、きちんとくぐって向こう側に行きなさいねという応援のために、お坊さんがお経をあげてくださるのだそうです。

それで火の輪をくぐって歩き出してもですね、七日ごとに裁判にかけられるのだそうです。これは全然知りませんでした。

七日ごとに担当する仏様が違っていて、
二七日(14日目)は釈迦如来による三途の川のほとりで裁判、
三七日(21日目)は文殊菩薩による邪淫の業についての審査、
四七日(28日目)は普賢菩薩による計りで罪の重さを量るのだそうです。

それで五七日(35日目)に閻魔大王の水晶の鏡で生前の業績をつぶさに映し出され、裁きを申し渡されて、行く先が定まるのだそうです。

それでまた次の七日目に、閻魔大王が決めた行く先が本当に合っているかどうかという、薬師如来による五官王の計りと閻魔大王の鏡で、生前の功徳の再審査をされ、七七日(49日目)に薬師如来による善因・悪縁の審査があって、判決が確定され最終的に行き場所が決まるのだそうです。
(出典:浄圓四季随筆)

四十九日になって最終的な判断がどう出されるのかということはもう自分の範疇ではないけれど、それは生きてきた日々を全部点検させられて、ほらあの時こう思った、あの時こうした、この時ああやったということを見せられるのだそうです。

四十九日の法要は、四十九日そのものか一日前とか数日前に行うしきたりがあるのは、亡くなった人がなるべくいいところへ帰れるように、残された者たちの祈りと感謝の応援が届くようにという意味があるのだそうです。

その応援によってまた行き先も変化するので、四十九日がとても大事な法要になると書かれていました。

七日目が日曜日でよかったですねと、葬儀屋さんが言っていた意味がその時は分からなかったんですけど、調べてみると七日ごとにそういう審査を受けるので、七日ごとに残された者が本当に真心で感謝を捧げてお祈りする意味がある。

残された者のお祈りが追善としてのポイントになるというか、お祈りすることで裁判が少し良い方向へ向いていくんですね。

死んでそういう裁判を受けないと三途の川を渡れないし、渡った後の行き先もものすごく大変な場所へ帰ってしまえば、肉体を持った時の苦しみよりもさらに上回るような修行をしなければならなくて、その修行は肉体を持っていない分相当きついらしいのです。

そういうことを調べれば調べるほど、今世のこの肉体があるうちにとにかく心の中を清らかに、心の中の深いところまでお掃除をして、どんなときにも我欲とよこしまな考え、ずるい考え、または自分を貶めるようなくよくよする考え、自暴自棄の考えと決別して、神様が望んで下さっているような自分を作っていくことがいかに重要かとまたよく分かりました。

肉体がある時はあちらの世界よりも、修行がやりやすいから肉体を頂いたわけなので、やはり何としても、もっともっと覚醒した意識で客観的に自分の心の中を見て、そして自分の話している言葉を徹底的に一言一句聞き逃さない練習をして、ありのままの自分というものを見つけ、そのありのままの自分をそのまま高めるための対策と練習に励み続けたいと思いました。

そうしなければ、また亡くなってからの修行が本当に大変なんだろうなということも分かりました。

生き抜くために体を作っていて、一息十秒というのはそういう大事な一息十秒で、自分を調教するパワーを生むためでもありますし、一日でも長く生きて自分を磨くための時間を稼がなければなりません。

そういう意味でも丈夫な体を作ることは大事だと思います。

ヨーガ教室主宰 紙やまさみ
2018年6月13日(水)朝のレッスンで