紙や まさみが、ヨーガによって不治の病を克服するまでのストーリー |
目次
2歳から腎臓病を患う
私は生まれた時からとても虚弱だったんですね。2歳頃から腎臓が悪くなって、蚊にさされただけでも1ケ月も2ケ月も膿んでしまうほど治癒力がありませんでした。
小児ぜんそくも患っていたので、小学校に入る頃には、腎臓とぜんそくの薬や抗うつ薬、自律神経の薬が手放せない体になっていました。
中学、高校と進学はしたものの休みがちで、体育の授業はほとんど出たことがありません。勉強したくても体が言うことをきかず、とても悔しい思いをしました。病気だけが本当の友だちみたいな状態だったんです。
21歳で不治の病を宣告
ついに、21歳の時に不治の病の宣告を受けました。
子供も産めないし、運動も一切できない。そして、一生治らない・・・。
スカスカになって肥大している左の腎臓を切除して、右側の遊走腎というぶらぶら下がっている腎臓を背中に縫い付ければ、寝たり起きたりの暮らしはできる。でも、最悪の場合は人工透析になると言われました。私の家はとても貧乏だったので、当時は保険のきかない人工透析で命を長らえるなんて選択はできませんでした。
絶望感から死を求めて自暴自棄に
絶望感がいっぱいで荒れに荒れました。その頃は「死んでやろう」って自暴自棄になっていました。
でも、手首を切ったり、屋上から飛び降りるなんてできなくて、消極的な自殺。
お酒を飲むとか、眠らないとか、車に飛びこんだり、とにかくめちゃくちゃなことをしました。
それでも、誰かしらが助けてくれて死ねなかった。
何をしても死ねないことが分かったら、荒れるのに疲れちゃったんです。
それで、ふっと生きることを考えてみようかなって思いました。
ヨーガとの出会い
お医者さんはいけないというけれど、運動をしてみよう!と思ったんです。
思いっきり荒れて死ねなかったから、今度は精いっぱい生きる。
自分の体を使ってとにかく治そうと思いました。
最初に体操教室に行ったら「あなたには無理そうだから」といってヨーガ教室を紹介されました。
翌日にはその教室に行って、「本当に何もできないかもしれないけど、とにかく治りたいんです。死ねないなら生き生きと生きていたい。半分死んでるように生きてるんだったら、生きてないほうがいいんです」って先生にお願いしました。
教室には週二回通いました。何のポーズもできなかったし、1回行くと3日くらい寝込んでしまう。
その繰り返しでしたが、次第に寝込む日数が減り、いつしか寝込むこともなくなっていました。
西洋医学への不信と強度ノイローゼ
ヨーガのおかげで少しずつ元気になってきた頃、母が脳腫瘍で倒れました。
運ばれた病院で人の命よりも病院側の都合を優先するシステムを目の当たりにし、西洋医学への疑問を強く感じました。
さらに、私のそれまでの生き方を考え直さざるを得ないところに追い込まれました。
当時は、体が弱かったし、過去に生活保護を受けたりしたので、この世の中で信じられるのはお金だけだという思いが強かったのです。そのため、お金を稼ぐのにもってこいのモデルのアルバイトから芸能界に入ってナレーターやレポーターの仕事を始めていました。
でも、死の淵に立った母を目の当たりにして、お金があっても何の役にも立たないという現実をつきつけられ、「お金が一番」という価値観が砕け散りました。そうしたら、芸能レポーターなんてまったく意味のないことに人生を費やしてきたのではないかと思い始めたんです。
それで、今度は強度のノイローゼ状態になってしまいました。
ノイローゼを乗り越えての再出発
外に出られず、食べられず、幻覚・幻聴がひどくなっていきました。
友だちは「体の病気ではなく心の病気でまさみが死んでしまう」と思っていたそうです。
こんな状態なのに、ヨーガだけには通い続けていました。正気の時間はヨーガをしている時だけ。
家の外は怖くて怖くてたまらないのに、ヨーガに行こうと思う時だけ不思議と怖さがなくなったのです。
幻覚・幻聴が消えて、心が静かになりました。
その年の誕生日に、突然、私は生まれ変わりました。30歳になった日です。
何かこれまで覆っていたものがすーっと抜けて行くような不思議な体験でした。
幼少の頃の体験ゆえに、物質主義の塊のような心で自分を守り支えていなければ生きられなかった私の、唯一のよりどころだった価値観さえも爆破してしまったのです。
人生の答えを求めて世界へ
このときから、私はあるがままの私で生きるために、どんな時も決して自分に嘘をつかないと心に誓ったのです。その次の日からマスコミの仕事をどんどん辞めていきました。
心の中にあるたくさんの疑問、「幸せって、愛ってなんだろう」「お金で買えないものってあるのか」「人はなぜ生まれ、なんのために生きているのか」…などの答えを求めて、インドやネパールなど、世界を旅しました。