カルマ・ヨーガ

シャンティパットでは、カルマ・ヨーガを大切にしています。

カルマ・ヨーガの ”カルマ” とは、サンスクリット語の ”Kri(する)” が語源で、「行為」や「行為の結果」を意味しています。
カルマ・ヨーガとは ── 日常生活の行為を行う中で、損得勘定に囚われず、見返りを求めず、結果を期待せず、なすべき役割や目の前に置かれた物事に無心で取り組む、神(宇宙)の望まれることに取り組む ── ことです。
カルマ・ヨーガは、「行為のヨーガ」とも呼ばれ、日常生活を通しての、生き方そのもののヨーガです。

シャンティパットでは、アーサナやプラーナヤーマなどのエクササイズの他に、「カルマ・ヨーガ」を重視しています。
シャンティパットの組織も、主宰者の 紙や まさみを中心としながら、メンバーたちのカルマ・ヨーガで運営されています。

以下は、「紙や まさみブログ “本気の扉”」からの引用です。

自分を知り続けていくことで見える境地があります

カルマ・ヨーガをご存知ですか?
カルマ(Karma)は、「行為」が語源の言葉です。
よきにつけ悪しきにつけ、あらゆる因果は行為に結びつくのです。
すなわちカルマ・ヨーガは、囚われない心を持って捧げる無償の行為です。

私のグルーの師であるシヴァナンダさんは著書のなかで、カルマ・ヨーガというのは聖者にしか行えないものだと書いていらっしゃいます。
なぜかというと、最終的に我というもの、我欲が消えた状態でしか本当の意味でのカルマ・ヨーガは行えないものだからです。
そういうレベルの高いヨーガであることは事実ですが、それを文字として読んだ時に私はかなり衝撃を受けました。

けれども我欲だらけの私たちでも、いつかはカルマ・ヨーガに取りかからなければ、何回生まれ変わっても本物のカルマ・ヨーガの境地に到達することはできません。
また、その境地に到達できない限りは、ずっと苦しみだらけの肉体を持った三次元に、何十回も何百回も生まれ変わり続けて厳しい修行を延々と繰り返さなければなりません。

私たちは小さな、そして低いレベルから少しずつカルマ・ヨーガに取り組んできました。
取り組みを始めた時点から振り返ってみれば、褒められたいとか、よい行いは自分がやったんだと言いたいとか、みんなに知らしめたい、という気持ちが少しずつ、薄紙を剥ぐように少なくなっていることに気づきます。
そういう我欲はもちろん私にもありますが、それがだんだん気にならなくなってきました。

ほんとに微々たるかたつむりの歩みでも、「進んできている」と素直に思う瞬間があります。
誰も見ていないところで身を捧げて、献饌させていただいてる自分を「ありがたい」と心底思えること。
そういう気持ちを味わわせていただける時が増えてくることは、何よりも人生の宝です。

そのことによって、これまでずっとつくってきてしまった悪しきカルマを消してもらっているのですから。
それを消してもらわない限りは、明日からのよりよい人生はつくれないのです。
悪いカルマが邪魔をして必ず自分に戻ってくるわけですから。

カルマ・ヨーガこそ、いま自分が取り組む、目指している人生をいち早く自分のものとして手に入れることができる道筋です。

そのためにもアーサナが大事だったり、プラーナヤーマが必要だったりします。
ぶれない心と丹田力を身につけること。
それから常に自分を見つめているもう一人の自分が消えないこと。
自分の傾向性、トラウマを乗り越える勇気を持ち続けるための筋肉をつけること。

そうしたヨーガ全般を通して、ほんとにいつかシヴァナンダさんのお書きになっているような境地で、カルマ・ヨーガを淡々と、喜びを持って神様に捧げるというピュアな境地まで到達したいと思います。

なんとか今世のうちにできるといいなぁと、私自身は日々自分との闘いをしています。
自分の持っている傾向性は生涯消えないもので、小さくはなるけれど消えてなくなることはないのです。
ある時は体調不良によりその傾向性がのさばって暴れることも未だにあります。
そういう自分を知り続けることが大事ですね。

もう一人の目が「またやってる、また失敗しちゃって、でも明日こそ、明後日こそ、次の瞬間こそ、次のチャンスこそ」と言いながら、自分に自分で鞭を打ち続けて、自分との闘いにちょっとずつ勝っていくことしかないのだと思います。

アメイジング・ヨーガ教室主宰 紙やまさみ
2018年3月17日(土)のレッスンで

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