ヨーガセラピストとしての歩み

世界を旅して学んだこと、いろんな病気や事故を乗りこえた経験が
ヨーガセラピスト 紙や まさみを育ててくれました。

ダーマ・ミトラ師との運命の出会い

アメイジングヨーガ・メソッドの礎となる本格的なヨーガと出会ったのは1982年、New Yorkでのこと。
ダウンタウンで偶然「YOGA」の看板を見つけて飛び込んだのが、今ではキング・オブ・アーサナと呼ばれるダーマ・ミトラ師のスタジオでした。
当時はダーマのことなど知るよしもなく、ブロードウェイのダンサーやヨーガの先生などが学びにきていることに驚きました。

アイアンガー・ヨーガのクラスに入ることになり、丸一年間、毎日、朝晩ヨーガのレッスンに通いました。
ポーズが痛くて痛くて、涙をぽろぽろこぼしながらやりました。
おかげで、体は劇的に変わり、友だちからは「人間サイボーグだね」と驚かれました。
鎖骨が開いて肩幅が10cm広くなり、30歳を過ぎていたのに身長が6cmも伸びたのです。
その後、帰国しましたが4年間にわたり通い続けました。

自分と向き合えば必ず元気になれると伝えたい

New Yorkから帰国してきた時、東京の人たちの元気のなさに驚きました。まるでゾンビみたい・・・。
不治の病と言われた私がこんなに健康になったことを伝えないのはもったいない!という気持がありました。
ちゃんと体と向き合えば健康になれる可能性もあるのに、ストレスや病気の苦しみに負けて命を無駄にしているなんてって憤りさえ感じたのです。

都会でエネルギーを消耗して疲れ切っている人、病気で苦しんでいる人、自分自身が絶望を経験してきたからこそ「ちゃんと元気になれるよ」って伝えたい。そんな思いから、1985年にヨーガ教室「Shanti Path(シャンティパット)」を始めました。
最初は家族や友人を中心に教え始めました。「偏頭痛が治った」「痩せたわー!」ってみんな喜んでくれました。みんな見る見る変化があらわれて、どんどんきれいになって、元気になっていくので、私も夢中でレッスンしました。
あれよあれよという間に、口コミでヨーガの輪がどんどん広がっていきました。

世界のヨーガ教室やアシュラムを訪ねて

それでも長く東京にいると、私自身もパワーがしぼんできてしまうのです。
その原因はいろいろ。私も一人の人間ですから気持が伝わらなくて悩んだり、元芸能界にいたということで誤解されたり・・・。教え始めたばかりの頃は迷うことも多かったのです。

朝目が覚めたのにもうちょっと寝ていたいとか、カーテンを開けて「太陽がきれいだわ」っていう感動がなくなってきた時は要注意。東京に降り立った時に見たゾンビの一人に私自身がなりかかっている兆しです。
そんな時はすぐに東京を脱出しました。

生きている感覚を持ち続けたくて、繰り返し旅を続けました。
世界各地のヨーガ教室を見て歩いて、良いところを吸収し、出会ったたくさんの人々から全く違う価値観があるということを学び続けました。

BSYでヨーガの真髄を知る

そんな中で、アメイジングヨーガメソッドのもう一つの拠り所となっている、BSY(ビハール スクール オブ ヨーガ)に出会いました。
インドのケララにあるシヴァナンダアシュラムに滞在していた時に、「ヨーガを志す世界中の人が今一番学びたい学校がある」という噂を耳にしました。
それが、私のグルーとなるサッチャナンダ師が開いたヨーガ学校だったのです。

その足で向かい、カルマヨーガを行って帰ってきました。
清々しいエネルギーに満ちた場所でスワミたちの精神性の高さに魅了され、翌年にはティーチャーズトレーニングコースを受講。その後も3~4年をかけて通い続け、個人レッスンで様々な指導を受け学びました。

アーサナの礎であるダーマ師、精神的な礎であるサッチャナンダ師、二つの素晴らしい教えがアメイジングヨーガ・メソッドの源流となっています。

*世界のヨーガ、BSYとのつながりについては〈世界のヨーガからの学び〉をご参照ください。

キューバでの事故と学び

海外に旅し続けたのにはもう一つ理由がありました。
東京の生活に疲れてくると、もっと居心地よく住める場所があるんじゃないかと思っていたんですね。
でも、1998年のキューバ旅行を最後に、そんな風に旅をすることはピッタリとなくなりました。
居心地が悪いのは場所の問題ではなくて、私自身の問題なのだと気付いたからです。
私がいるべき場所は日本・東京で、ここでヨーガを教え続けていく決心がやっと固まったのです。

それだけの大きなターニングポイントとなったのが、キューバ旅行での交通事故。
バイクで二人乗りをしていて大型トラックと正面衝突したのです。
足がミシっという音を立てて折れ、1年間骨がつかない状態が続きました。

それまでの私は、自分がやると決めたのに、決めたことができないという人の気持が理解できませんでした。
でも、足を骨折して寝たきりになって、人の助けがなければ本当に何もできない。
ご飯さえ食べられないし、トイレもままなりません。
やりたいと思っているのにできないという、そんな弱さを持っている心もあるんだということを初めて理解しました。
そういう弱さを認めたうえで、どうやって強くしていくのか、ということを考えられるようになりました。

化学物質過敏症が与えてくれたもの

もうひとつの大きなターニングポイントは、2008年に化学物質過敏症を発症したことです。
家を改装した時の、いわゆるシックハウスが引き金でした。

これまで様々な病気やけが、精神の病などを経験し克服してきましたが、アレルギーやアトピーにはかかったことがありませんでした。
メンバーの中にアレルギー関連の病気を抱える人がいても、今一つ実感が持てなかったのです。
でも、実際に自分が発症して自分の意志とは関係なく、気絶したり、精神が不安定になることに驚きました。
また一つ想像力の限界を突破することができたのです。

化学物質過敏症を患うことで衣食住すべてを見直さざるを得なくなったことで、今まで強く意識してこなかった食や自然、ナチュラルなライフスタイルの重要性を思い知ることになりました。
この病気があったからこそ、単なるヨーガを超えてライフスタイル全体を通して元気に暮らすお手伝いをする、現在の形に進化することができたのです。

これからもずっと、体や心の疲れている人たちや、どう生きたらいいか迷っている人たちに、健康や探しているものはあなたの体と心の中にあるということを、一生懸命伝え続けて行きたいと思っています。
私自身が今も、これからも自分と闘い続ける姿を通して。

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