「当たり前」は何ひとつないことを糧にして

「感謝」の反対語は、何だかご存知でしょうか?

「当たり前」だそうです。

いまのような状況になると、いままで当たり前だったことが当たり前じゃないんだ、ということに否応なく気づきますね。

クラスも、月曜から日曜まであるのが当たり前、行けば必ずレッスンが受けられるという状況にありました。

もっと細かく言えば、お家に「ただいま」って帰ったら家族がいるのが当たり前とか。

こうやって、息をしている空気があるのが当たり前、水道から飲み水が出るのが当たり前、スイッチを入れれば電気がつくのは当たり前。

その何もかもが当たり前になってるとき、そのものに対しての感謝が、やはり自分の心のなかから薄まってるっていうことですね。

あぁ今日も息を吸えて有り難いなって、1秒ごとに思って、水道をひねると水がでるなんて本当に有り難いなぁって。

「ただいま」って帰ると「おかえり」っていう家族の声が聞こえる、何て嬉しい、何て有り難いことなんだろうということを、毎日毎日思い続けることはとても難しいことですね。すぐ慣れちゃうから。

でも世界的にいまのような状況になると、何ひとつ「当たり前」はないですね。

今日だってもしかしたら、スーパーに行ったら棚には何もなくなってるかもしれない。

心ない人が自分の都合だけで全部買い占めるようなことをしちゃって、本当に食べるものが必要で買いに行った人の手に、何も渡らないっていうこともあり得ます。

水道が止まって、蛇口をいくらひねっても水が出ないことだってあり得ます。

「ただいま」って帰っても、シーンって誰も返事をしてくれないようなことだってあり得ます。

当たり前っていうことが、感謝の反対語という意味はそういうことですね。

こういうときに、学ぶべきことって何だろうって考えると、日頃見落としているようなことの、いろんな深いところに気づきが得られますね。

自分の日常の反省も含めて、見直しも含めて、いろんな角度から生きてること自体が当たり前じゃないっていうことに、誰もが気づいたと思います。

今回の神様の思惑というのは、人間が「当たり前」になっていく鈍さと傲慢さに、警鐘を鳴らしているのかなっていう気がします。

自身のすべてを細かく丁寧に点検する時間と、強制的な負荷をいただいたことにおいて、私たちはやるべきことをきちんと内的作業としてやっていく。

深く探っていって、決して忘れないものとして自分のなかの糧にして、当たり前ということは何ひとつないという生き方が明日からできると、災い転じて、内的に福となすことができるのだと思います。
そうしなければならないと思います。深い実感を持って。

同時に、肉体を持っていますから、限りなく鍛え続けて、自分自身の免疫力と治癒力は絶対に落とさない。

そういう意味でも心の風通しはとても大事ですし、よい睡眠、よい食事という肉体に対する栄養も、丁寧に考えたいところですね。

2020年4月26日(日)今思うことをメンバーへ

アメイジング・ヨーガ教室
シャンティパット主宰
紙や まさみ